マラソン ランニング

テレビ中継のマラソン

元々走ることについて勝手な独り言のつもりで始めたこのブログだが、走らなくなった今、何を綴ろうか悩むところだ。それでも走る事、殊にマラソン的な長距離には興味がある。

 

先日の大学女子駅伝をテレビで見た。男子の駅伝よりも各区間の距離は短く最長でも9kmほどで、概ね5−6kmが一区間の距離だ。それを3分10~15秒くらいのスピードで走り抜けるのだ。実に恐ろしいスピードだ。100mを19秒位のスピードで5-6km走る事は並大抵のことではない。僕は単なる市民ランナーだったので、3分30秒で1kmが関の山だった。そのスピードで走ったらその後は確実に4分後半じゃないと心肺が持たない。

 

自分も走っていて4分前半ですら中々なスピードである事、しかもそのスピードで10~20km走るとなるとかなり苦しいのはよくわかっている。マラソンのテレビ中継で一番残念なのはそのスピード感が伝わらないことだ。TVで正面から映されるとそのスピードが、例え男子オリンピック級選手の1k当たり2分を切るスピードでさえも、さほどのスピード感は伝わらない。トラック競技は100mやリレーはもちろんのこと、5000mでも10000mでも(特に最後のスパートは)その速さはテレビの画面からも伝わる。が、ロードレースになるといきなりゆっくりに見えるのだ。沿道で応援して目の前を通過されれば、もちろんその速さに驚くのだが、それが画面を通して伝わらないのが実に残念だ。そんなこと思っているのは僕だけだろうか。。。

 

大学女子駅伝大会の1日前に、テレビで前回優勝の松山大学(今回は残念ながら13位)を中心に今年の大会に向けての練習風景などを特集していた。画面には監督の厳しい指導、涙を流しながら、悔しがりながらその厳しい練習に耐える選手たちの様子が映し出されていた。現在の練習方法は昔の非科学的な練習とは違うのだろうが、その精神の背景には兎に角がむしゃらに体を虐める昔ながらの運動部のやり方のように見えた。

 

少し話は逸れるが数日前に、やはりテレビで水泳の瀬戸大也選手のオーストラリアでの合宿の様子が特集されていた。今までの日本でのやり方を一新するため、武者修行にやってきたということだったが、その番組の中で印象的だった事があった。練習は周りは全て地元の先週で彼一人が日本人。もちろん練習メニューはオストラリアチームいつも練習。それもかなりハードな練習との事だが、その厳しい練習に対してオーストラリアの選手たちは笑顔で楽しそうにやっているということ。記録を目指す選手たちもスポーツを楽しんでいると感じたようだった。今まで日本で練習している時には誰もがため息をつきながら練習していたのに、オーストラリアでため息を付きながら練習している人が誰もいないというのだ。

 

大学女子駅伝の特集番組の女子選手たちが涙する姿を見て思い出したのが、この瀬戸選手のオーストラリアでの感じた印象の事だった。

ため息どころか泣きながら練習に耐える、コーチに叱咤されるつつそれに耐えているその姿に、日本のスポーツ指導の基礎を見たような気がした。もちろん全てが精神論ではないだろう(箱根の青学のように)。この厳しくされる事に対して一種の価値を見出しているのは日本人の特性なのだろうか。

日本伝統のスポーツというと柔道や剣道と言った武道があり、指導も厳しそうな(多分間違っていない)イメージがある。この柔道、剣道のような指導が今のスポーツ指導の基本になっているのか?

或いは、これらは今となってはスポーツの一種だが、元々は身を守るまたは攻撃するための武術だったと考えると。。。

刀と弓の時代には剣術は戦うための必要な技であり、スポーツではなく、敗北=死と意味する生きるための技。その構図の中での武道であれば、相当な厳しい指導があって当たり前だろう。習う側にもそれなりの覚悟があって習っていた事と思う。

それがいつの日かスポーツ指導の基礎になったのか。或いは、軍国主義時代の何でもかんでも厳しい規律の名残なのか。

いずれにせよ、どれだけ科学が発達している現代でも「スポーツ指導=厳しい」のイメージが未だに定着している。巨人の星なんかは、まさに「根性だけがスポーツの上達を支える」という誤った知識を植えつけたのではないかとさえ思う。

 

週末、ゴロゴロしながらテレビを見ながらそんな事を考えていた。