マラソン ランニング

高校野球について

毎年夏になると楽しみにしているものの一つに高校野球を挙げる人は多いだろう。長い歴史に刻まれた数々のドラマ。語り継がれる名勝負。歯を食いしばって勝利を勝ち取った勝者と力尽きて崩れ落ちる敗者。勝者にはもちろんのこと、敗者にも熱い拍手は鳴り止まず、そして時には敗者が勝者よりも感動のストーリーとして語り継がれることもある。甲子園全体を、そして、テレビを見ている多くの人を感動の渦に巻き込む。それが甲子園を舞台にする高校野球の魅力だ。

高校球児は夏のこの大会に全てをかけて、マスコミ含めファンも、甲子園までの道のりを含めて、毎年の新たなドラマを楽しみにしている。

高校野球と言えば、やはり先ず注目されるのは投手だ。清原や松井のようなスラッガーももちろん注目の的だが、豪速球で次々と強打者をなぎ倒す剛腕投手やプロ顔負けの多彩な変化球で快刀乱麻の活躍をする技巧派投手など、地方大会から次世代のエースが注目される。

マスコミはプレシーズンから徐々に報道に熱を帯びてゆく。報道する側は、新しいスターを探し求め、報道される側の選手も注目されることに喜びを感じているだろう。そして視聴者は未来のプロ野球選手に対して評論家よろしく分析を始める。夏の甲子園への熱い戦いは高校球児、マスコミ、高校野球ファンが一体となって大きなうねりとなって動いてゆくのだ。

いつの時代でも必ず抜きん出た才能の選手がいる。エースピッチャーの場合は、投げ込んで体に叩き込むという練習が多いようだ。試合になればエースとして先発する。日本の野球は先発完投型というのが、優れた投手として認識されているらしい。これはいつから始まったのかわからないが、先発とは試合を作る役目であり、最後までその役目を全うするのが、試合を任されたものの責務であるという考えだろうか。指導側も総じて、特にエースに対して完投できる体力をつけることを重視していると思われる。

試合で完投できるように、投げ込みをさせる。練習で試合より多く投げさせることで、試合を楽に感じさせる、または、投げ込みで体に叩き込めば、試合でピンチになっても体が自然に反応するなどの考えが根底にあるのだろうか。練習で投げ、試合で投げる。この繰り返しだろうか。

日本のアニメのジャンルにスポ根というのがある。世代によって異なるが代表的なものに「巨人の星」がある。1966年にスタートした漫画だ(テレビアニメは1968年から)。苦行のような練習に耐え、心と体を鍛錬して、目標に向かう様子を綴った物語だ。そこには、体のメカニズムや健康の概念はなく、ひたすら肉体的・精神的に過大な負荷をかけ続け、その負荷に耐えられるようになった時、新しい境地に入ることが許される、そんな精神性を重要視している。そしてその負荷に耐えられないのは、精神が弛んでいるから、鍛錬が足りないから、根性がない証であり、それは恥であると表現されていた。兎に角根性が全て。根性さえあれば、何者にも勝るというのが基本の考え。

鍛錬というのは、心身の技量を上げてゆくことだが、慣用的にはやや精神の方に比重が置かれているイメージだ。そして、日本のスポーツ界は鍛錬的練習が好きなのではないだろうか。確かに精神力は大事だ。技量があっても精神的に安定していなければ、高いレベルでのパフォーマンスを維持はできないだろうし、強靭な精神力は勝負の世界では必要不可欠な要素だ。主人公の星飛雄馬は子供の頃、大リーグ養成ギブスで体を鍛え、毎日のピッチング練習を欠かさず、甲子園では怪我をしてもエースの責務を全うし、結果的に負けるのだが、負けることがわかっていても弱音を吐かず責任を果たすその姿勢を美しいものとして描いている。

その甲子園での怪我を簡単に説明しよう。それは試合中に飛雄馬の利き手である左手の親指の爪を割ってしまったことだ。原因はライバルの一人ある左門豊作の折れたバットを手で叩き落したことが原因。甲子園準決勝で左門と対決した飛雄馬は勝負に勝ったのだが、飛雄馬の豪速球に左門のバットが折れ、バットが飛雄馬目掛けて飛んでくるのだ。咄嗟に身を守ろうとした飛雄馬は利き手の左で飛んで来たバットを空手チョップよろしく叩いてしまうのだ。

決勝までに割れた爪が完治することはないのだがほぼ飛雄馬一人で勝ち上がってきたチームに甲子園の決勝で戦えるようなレベルの替えの投手はいない。自分の怪我でチームに迷惑はかけられないという強い責任感と犠牲的精神でチームにすら怪我を隠し、爪が割れた状態で決勝を投げる。もちろんトレードマークの豪速球を投げることできないのだが、そこは鍛え抜かれたコントロールでギリギリまで投げ抜く。然し、最後には最大のライバルである花形満に打たれて負けてしまう。負けた後に花形が飛雄馬の怪我に気づき、爪が割れても投げ抜いた不屈の精神を讃える。そんな強い精神力の持ち主がヒーローとして描かれている。

果たしてこの漫画の影響は大きいのではないか。非科学的なトレーニングの実施や先輩の絶対的な存在を否定できない上下関係。この軍隊的な考え方が日本のスポーツ界、特に高校野球に根深く残っているのではないだろうか。軍隊との違いを挙げるなら、高校球児たちのモチベーションが野球好きと言う点。好きだから上手くなりたい、そのためには厳しい訓練も必要。それはスポーツ選手全員が共通で理解していることだろう。問題は、多少理不尽でもなんでも受け入れる、その精神が重要視されていることと、監督、コーチ、先輩からの理不尽な命令を拒否できないこと。スポーツ選手は結構体を壊していることが多いらしい。それは本来の人体メカニズムを超えた領域の負荷をかけ続けた結果なのではないだろうか。負荷を掛け過ぎれば、体は悲鳴をあげる。スポーツは生身の人間がやっているから負担は全て体に来るのだ。最近は科学的なトレーニングが採用されているところも増えているようだが、まだまだ科学的な部分と非科学的な部分が混在していると思う。

ここまでくると高校野球はスポーツではなく一種の宗教のように見えてしまう。信者は滝行や読経の代わりに、野球のための練習という名目の厳しい鍛錬を受ける。全ての苦行の目標は甲子園で力を使い果たすこと。35度以上の炎天下で試合をすることももちろん苦行の一環だ。決して弱音を吐くことは許されない。諦めることは許されない。野球人生が終わろうが、何があろうとやり遂げる。投手の場合、万一苦しい表情を見せてしまい、監督から「大丈夫か」と声をかけられても「大丈夫です」と答えるばかりか投手は自ら「投げさせてください」と懇願するのが教えだ。母校の応援団も見ている中で決して無様な姿は見せられないのだ。それが、高校野球教だ。

新潟高野連が投手の障害予防となる1試合100球制限案に対して日本高野連が待ったを掛けている。ルール化などに時間必要とのことですぐの採用ではないが、障害を予防するためのものであることを忘れずに検討をしてもらいたい。また、試合だけではなく、練習そのものも障害を予防する考えを徹底してもらいたいと思う。今やNPB選手がNLBで活躍する時代。そろそろ今までの慣習を見直す時期なのではないだろうか。

 

虐待 いじめ DVなどについて

頻繁にニュースで子供の虐待やいじめなど、見聞きするのは本当に嫌な気持ちになる。大抵の場合は体力的に勝る側が加害者だ。子供に対しては大人。女性に対しては男性が加害者になることが大半。

子供への虐待の場合、よく聞くのが躾と称した教育と言い張るケース。最近のニュースでも、食事を与えない、寒い冬に外に放置するなど。どこの世界にそんな躾があるんだ??

 

盗人にも三分の理。泥棒だって屁理屈をこねればなんでも言える。正にそれ。虐待する側にも理由があると言わんばかりに、躾という。本当に聞いていてヘドが出る。

 

これはとても原始的な発想なのは承知で言うが、加害者には被害者と同じ目を合わせた方がいいと思っている。自分がやったことがどれだけ人に苦痛を与えているのか身を持って味わった方が良いと思う。虐めた奴は同じだけ虐められる。虐待した奴は同じだけど虐待される。

憎しみが新たな憎しみを生むのはよく分かるし、憎しみの連鎖は断ち切るべきだとは思う。憎しみの連鎖は国家間では永遠の戦争を意味するし、なんの解決にならないのも分かっている。

それでも、なにも抵抗できない子供を虐待し、死に至らしめるのは絶対に許せない。懲役は有無を言わさず100年。刑務所では食事を与えなくていい。真冬も裸のままでいい。それくらいの苦痛を味合わせるべきだ。

幸いにして自分の周りではこのような事件は起こっていない。憎しみを憎しみで返してはいけないとは思っている。特に国家間の争いではそう考えている。でも、それは、自分にとって戦争が余りに遠い存在だから冷静なれるのだ。もし、家族が事件や戦争に巻き込まれたら、そんなに冷静はなれない。

虐待やいじめのニュースは本当に聞いていて嫌だ。マスコミも報道するだけではなく抑止するための報道とは何かを考えて欲しい。

勢い任せに書いてしまったけど、抑止出来る良い方法を誰か頭のいい人考えてください!

頸椎症

椎間板ヘルニアの次は頸椎症。まあ、昔からだってんですが、昨年の10月中旬くらいから急に悪くなり今では左腕全体が痺れている状態。日によって多少症状は変わるものの痛みと痺れが取れない。

もちろん走れるわけもなく…。

 

一時酷かった椎間板ヘルニアは謎の整体と毎日のウォーキングで通常生活には支障がなくなり、暫くジョギング、と言っても3km程度、をしていた時期もあったのだが。

どうも体の中心線が弱いらしい。健康状態としてはかなり致命的だ。

今は鍼灸に通っている。ここは、以前(20年くらい前)に根気よく通って頸椎症をほぼなきものにしてくれたところ。ちょうど寒い時期なので今はじっくり治して暖かくなったらまた3~5km程度走れればと思ってる。

 

走ると言ってももうレースには出ない。単に肥満防止。頸椎症が治らんかったらデブになってまう。

味覚について

僕は多分味音痴だ。微妙な味は分からない。素材の味も分からない。

それを不幸だと思うかもしれないが、そうでもない。かなりの物は美味しく食べられるのだ。

 

味音痴に気付いたのはある店で出されたものを食べた後に、同席の友達に「それ何だった?」と聞かれて答えられなかった時だったと思う。出されると直ぐに食べてしまうこともあり、味を楽しむ意識はなかった。もちろん、質問には答えられない。少し恥ずかしいと思い、友達の未だ手をつけていない料理を見て形から判断しようとした。が、無理だった。素材のヒントになるような形はなかったのだ。食べたものが肉なのか魚なのか野菜なのかさえ分からなかった。

 

以来少し意識をしてみると、素材が分からず食べていることが結構あった。大抵のものは素材の形が残っている。ステーキは明らかに肉で、焼き魚は明らかに魚だ。野菜スティックもキュウリや人参だと分かる。あるいは、トンカツは外から見えなくても中は豚肉で、焼き鳥は身をつぶっても鶏肉だ。基本は目視なのだ。細かく切ったり、すりつぶしたもの、色々混ぜたソース系は完全にお手上げだ。

 

僕の味の評価は素材が何であれ、大体は食感だ。

肉ならはジュワー、野菜ならみずみずしさ、ご飯はふっくら、マグロの中トロならとろ〜り、餃子は外のパリパリと中のジュワ〜。これらがあれば大体美味しい。多少味が濃くても薄くても大丈夫だ。

 

テレビでよく食リポやっているが、旨さの表現の大半が食感なことに気づいた。肉は大体、「やわらかーい」や「ジューシー」、取れたての魚は「身が締まってる」、天ぷらは「さくっとした旨さ」、ごはんは「ふっくらとした味わい」なんてコメントだ。

 

ちなみに僕の味の表現は、甘い、辛い、塩っぱい、苦い、酸っぱい程度。これに「少し」や「すごく」などの形容詞が付けば大抵のものは処理できる。

 

速く歩いてみた3

昨日も速足帰宅。4.34km, 6:36/km, 27:58.54,293Kcal

一生懸命歩いたがタイムは落ちた。今回はランニングウェアに着替えて、洋服をリュックに入れて気合を入れたのだが、結果はついて来なかった。着替えとPCを入れたリュックは思いの外重くて、正直これはない、と思った。今日はランニングウェアは持って来なかった。GPSウォッチは持っているが、今日からは8分程度の歩行にしようと思う。汗をかき過ぎるのも気持ち悪いし、かと言って荷物が重いのは嫌だからだ。運動ではなく、体を調整するためのウォーキングが少し速歩き位が良いのだろう。

速く歩いてみた2

今日も速く歩いた。雨じゃないので顔を隠す傘はないが、もうどうでもいい。今日は

4.09km, 24:26.06, 5:59/km, 273Kcalだ。昨日より速い。キロ6分はジョギングではスローだが、歩きだとこんなに息が切れるのか。走るよりピッチが速いのが原因だろう。この調子で続けると一体自己流でどの程度までスピードを上げられるのだろうか。

但し、問題はやっぱりウエアだ。今日は1.5km手前で上着を脱いだ。汗拭きのハンカチはビショビショだ。会社で着替えてランニングウエアで帰るのも手としてはあるのだが、問題は常にPCを携帯しているのでPC+洋服をリュックに入れるとなると嵩張るのと、重くなりそうだ。然し、試してみる価値はありそうだ。

週明けに一度やってみよう。今日はランニングシューズだったので、足元は快調だった。まさかターサーをこんな時期に会社に履いていくことなろうとは。

2日歩いても腰には影響がないようだ。衝撃はないから当然と言えば当然だろう。

ガーミンのベルトが届いた。今度からはちゃんと腕につけられる。更に楽しみができた。

音楽について話すこと

音楽が好きだ。好きなのは洋楽全般。ポップス・ロックのカテゴリーでは年代的に70年前後が好きだ。年代で分けるのは難しいが、結果的に好きな音楽はその辺りに集中している。

70年前後と言うと、Beatlesの解散とWoodstockが大きな話題だろうか。僕のヒーローたちと言えば、Beatlesから始まり、King Crimson, Eric Clapton, Jimi Hendrix, Janis Joplin, Grateful Dead, Little Feat, The Band, Doobie Brothers, Jackson Browne, Dr. John, Leon Russell, Allman Brother Band, Delaney & Bonnie, CSN&Y, CCR, Tower of Power, Chicago, BS&T, Jeff Beckなど。まだビジネスとしての音楽というよりも、伝えたメッセージを伝える手段としての音楽、または、純粋に音楽好きだからやっているというような時期だったと思う(とは言え、Beatlesはかなり商業的だったが。。。)

僕の中での興味対象の音楽の舞台は大半がアメリカだった。American Rockには少しCountry & Westernの要素が入っていて、それも好みで心地よくもあった。時折聴こえる、バンジョーフィドルマンドリンの音色が音楽にスパイスを与えていたような気がする(それが嵩じてDavis Grisman, Vassar Clements, Bill Monroe, Doc Watson, Leo Kottke辺りまで漁っていたが、さすがにBluegrassは深すぎて入り込めなかった)。

70年前後というと日本は歌謡曲全盛時代で、美空ひばり北島三郎都はるみ淡谷のり子等演歌系や村田英雄、三波春夫など浪曲謡曲系(?)、或いは何系とは言えないが藤山一郎、または小川知子由紀さおり夏木マリなどアダルトな歌謡曲南沙織フォーリーブスなどアイドル系歌手やグループが日本の音楽界を賑わせていた。テレビではオーディション番組から若い歌手たちが続々誕生して始めてきた頃。70年中盤というと山口百恵郷ひろみ辺りまでだろうか。

実は当時歌謡曲が嫌いだった。子供の頃から洋楽を好んで聴いていて、子供なりに音楽の「出来」がなんとなく違うと感じていたのだ(単なる西洋かぶれかもしれないが)。洋楽には音楽の字の如く、楽しい音と心をウキウキさせるビート感があった。これはBeatlesの映画の影響が大きいと思う。A hard days nightやHelp!で楽しそうに演奏してい姿がとにかく印象的だったのだ。

どんなに歌謡曲を聴くまいと思っていてもテレビやラジオから自然に流れて来るので、知らない訳ではないのだが、特に演歌、ムード歌謡、四畳半フォークの類はその手の音楽が聴こえるとテレビやラジオを消して聞かないようにしていた。僕にとってはその手の音楽は総じて「ジメジメして暗く、かっこ悪いもの」で、そんな音楽に慣れると自分が「ジメジメして暗くてかっこ悪くなる」と思っていたのだと思う。でも、本当は自分が「ジメジメして暗くてかっこ悪い」から、そんな風に思っていたのだろう。

謡曲全般を避けていたのだが、暗くはないがアイドル歌謡も嫌いだった。これは親の影響がかなりあると思っている。僕の親はアイドル歌謡やドリフ(今でいうバラエティー)、漫画(テレビも雑誌も)の類を、全て「くだらない」の一言で一蹴していたのだ。お陰で、テレビのアニメや子供向けのドラマなどは殆どリアルタイムで見たことがなく、同世代の人との話は全く合わない。漫画雑誌も殆ど読んだことがなく、こちらの話題にも付いていけない。音楽も歌謡曲が全く分からない。

70年前後の洋楽が好きと言っても、知っているのは極限られた領域だ。実は最近になって自分がアマゾンプライム会員だということに気づき、アマゾンミュージックを聴き始めた。そこには自分が通過していなかった数々のアーチストの作品がある。今になって聴いているのはJames Taylor, Carly Simon, Carol King, Jor Cooker, Van Morrisonなど。これらの人たちのアルバムがダウンロード出来る。まだまだたくさんありそうで実に楽しみだ。

日本の音楽では時代を遡って探しながら聴くことは無いのだが(笠置シズ子と初期の美空ひばり吉田拓郎は遡ってみた)、洋楽は相変わらず、時代を遡って楽しんでいる。そしての遡る時代とは大体が70年前後なのだ。